くますけと一緒に 読了ネタバレ、多分ありmoreインターネットを見ていた時に流れてきたことがきっかけで購入しました「くますけと一緒に」というタイトルから、なんだか他人事に思えなくて"あたしは悪いことなどしていないのに、いつも嫌われていた。同級生、そして両親にも。そんなあたしを気にかけてくれるのはママの親友・裕子さんと、くますけだけ。悪い人は死んでしまえばいい――。願うと同級生は事故にあい、両親も死ぬ。裕子さんに引き取られたあたしは、ここでくますけが邪悪なぬいぐるみなんじゃないかと思いはじめ……。"新装版 文庫本裏表紙より掲載両親が亡くなったところから物語は始まる。小学四年生にもなってぬいぐるみのくますけが手放せない成美。両親の葬式で涙一つ流さなかったのに、くますけと離れさせられそうになった時には涙を流す。親の死を喜んでしまっている自分が悪い子なのではないか、と考える。そうだな、と共感した。わたしの親は死んではいないが、親の事が嫌いな自分が悪い子なのだとうっすらと晩年は考えていた気がする(晩年、というとおかしく聞こえるがわたしにとってのあの頃は"晩年"なのである)親という存在は好きであるべきだし、愛するべきであり、この好意は一方的ではなくて両立する状態が健全な関係なのだろう。ただ、親……特に継母はどうだったか知らないが、わたしは彼女の事が終ぞ好きになれなかった。ただ、勿論すべてが悪い人ではなかった、と思う。そう思いたい。父にしたってそうだ。少なくとも父とわたしは、比較的健全な親子関係だったように思える。「くますけと一緒に」では度々成美の夢に彼女を責める両親が出てくる。自分たちが死んだのは成美が悪い、と糾弾する。死後の知らない、言われた事のないであろう事を夢の中で成美に言ってくる両親。すごく、わかる。未だに(あと少しで2年が経つ)ふとした時に夢の中にあの人達が出てきて、わたしを責めることがある。だからあの夢を見ているときの成美の気持ちも、ああいう夢を見てしまう成美の精神状態も身に覚えがある。物語の終盤で、成美を引き取った裕子が「……あなたが、たった一つのことさえ、認めればそれでいいのよ」と言う。続けて、「これを認めるのは辛いことかも知れない。」とも。このあたり、読んでいて本当に誇張表現なくありえないくらい泣いてしまった。身に覚えがありすぎるため……。結局のところわたしは未だどこかで認められていないのかもしれない。でもそれは我が身が可愛くて、自分はそんな事を考える悪人ではないと思っているからかもしれない。わたしが成美のようになれるには、少なくとも二人を前にしてあなた達には感謝している事もあるし、好きな部分もある。それでも、人としてわたし達は決定的に合わない。だから、せめて嫌いとまでは言わずとも相性が悪いのだと面と向かって伝えられるようになる必要がある。しかしわたしはまだ我が身が可愛く、ようやく得たしがらみのない日々にまだ浸っていたい。それが逃避と言われても構わないし、いつかはわたしだって対峙しなければならない。つまるところ、わたしは今回読んでいてひとつ、裕子のような人が身近にいて欲しかったのかもしれないと思った。双方の事情を知っていて、味方をしてくれて、正しさを教えてくれる人。もしかしたらそういう人が身近にいたら、あるいは、父がそうだったならばわたし達はこうはならなかったと言い切れる。さて、この物語で大事なのがくまのぬいぐるみである「くますけ」。ぬいぐるみ特有の存在の大きさ、無償の愛・何があっても自分を好きでいてくれるという"信頼"がすごく描かれていて、ぬいぐるみ……私物からの無償の愛を信じている自分には本当に肯定してくれる本作が非常に嬉しかった。成美のくますけにあたる存在が、わたしにとっての夜船くんや、それこそくまちなのだ。特にくまちは、あの晴れた日に嘘をついて家を出たわたしが東京駅へ向かう途中、情けない事に泣いていたのを膝の上で見ていた。あの日を共にしてから、余計にくまちの事が大事になった。くまちは、くまちだけはあの日のわたしを知っている。また、わたしの創作……日々の一部、人生の一部のため、創作と言うには少し違うような気がしてしまうけれど、とにかくその創作はわたしの逃げ場であり支えでもあった。今でも変わらない。日々在って当たり前の存在。そういった在るけれど無いものに縋って生きている身としては、この作品は非常に身近に感じられた。そういう「ぬいぐるみはぬいぐるみ」と言うように分かっていてもそれでも、無責任に意思を押し付けて己を肯定してくれる存在を人生だと呼んでいるから、成美とくますけ、裕子となんなんが他人に思えなかった。日々を生きるには、無責任に意思や思考を押し付けて勝手に動いて生きてくれる、わたしを信じて肯定してくれる存在がわたしには無くてはならないのだ。いつかは離れないとならないかもしれないと考えたことも無くはない。けれど、この作品はそれすらもしなくていいと肯定してくれた。心から出会えてよかったと思う。終わる前に最後に。やはり小説の帯は年々チープになっている気がする。既にわたしは「くますけと一緒に」の厄介オタクと化してしまったのでこんな文言で読者を誘うな、と轟洋介の目になってしまう。 レポート,読書感想文 2025/04/05(Sat)
ネタバレ、多分あり
インターネットを見ていた時に流れてきたことがきっかけで購入しました
「くますけと一緒に」というタイトルから、なんだか他人事に思えなくて
"あたしは悪いことなどしていないのに、いつも嫌われていた。同級生、そして両親にも。
そんなあたしを気にかけてくれるのはママの親友・裕子さんと、くますけだけ。悪い人は死んでしまえばいい――。
願うと同級生は事故にあい、両親も死ぬ。裕子さんに引き取られたあたしは、ここでくますけが邪悪なぬいぐるみなんじゃないかと思いはじめ……。"
新装版 文庫本裏表紙より掲載
両親が亡くなったところから物語は始まる。
小学四年生にもなってぬいぐるみのくますけが手放せない成美。
両親の葬式で涙一つ流さなかったのに、くますけと離れさせられそうになった時には涙を流す。
親の死を喜んでしまっている自分が悪い子なのではないか、と考える。
そうだな、と共感した。わたしの親は死んではいないが、親の事が嫌いな自分が悪い子なのだとうっすらと晩年は考えていた気がする(晩年、というとおかしく聞こえるがわたしにとってのあの頃は"晩年"なのである)
親という存在は好きであるべきだし、愛するべきであり、この好意は一方的ではなくて両立する状態が健全な関係なのだろう。
ただ、親……特に継母はどうだったか知らないが、わたしは彼女の事が終ぞ好きになれなかった。ただ、勿論すべてが悪い人ではなかった、と思う。そう思いたい。
父にしたってそうだ。少なくとも父とわたしは、比較的健全な親子関係だったように思える。
「くますけと一緒に」では度々成美の夢に彼女を責める両親が出てくる。自分たちが死んだのは成美が悪い、と糾弾する。
死後の知らない、言われた事のないであろう事を夢の中で成美に言ってくる両親。すごく、わかる。
未だに(あと少しで2年が経つ)ふとした時に夢の中にあの人達が出てきて、わたしを責めることがある。だからあの夢を見ているときの成美の気持ちも、ああいう夢を見てしまう成美の精神状態も身に覚えがある。
物語の終盤で、成美を引き取った裕子が「……あなたが、たった一つのことさえ、認めればそれでいいのよ」と言う。続けて、「これを認めるのは辛いことかも知れない。」とも。
このあたり、読んでいて本当に誇張表現なくありえないくらい泣いてしまった。身に覚えがありすぎるため……。
結局のところわたしは未だどこかで認められていないのかもしれない。でもそれは我が身が可愛くて、自分はそんな事を考える悪人ではないと思っているからかもしれない。
わたしが成美のようになれるには、少なくとも二人を前にしてあなた達には感謝している事もあるし、好きな部分もある。それでも、人としてわたし達は決定的に合わない。だから、せめて嫌いとまでは言わずとも相性が悪いのだと面と向かって伝えられるようになる必要がある。
しかしわたしはまだ我が身が可愛く、ようやく得たしがらみのない日々にまだ浸っていたい。それが逃避と言われても構わないし、いつかはわたしだって対峙しなければならない。
つまるところ、わたしは今回読んでいてひとつ、裕子のような人が身近にいて欲しかったのかもしれないと思った。双方の事情を知っていて、味方をしてくれて、正しさを教えてくれる人。
もしかしたらそういう人が身近にいたら、あるいは、父がそうだったならばわたし達はこうはならなかったと言い切れる。
さて、この物語で大事なのがくまのぬいぐるみである「くますけ」。
ぬいぐるみ特有の存在の大きさ、無償の愛・何があっても自分を好きでいてくれるという"信頼"がすごく描かれていて、ぬいぐるみ……私物からの無償の愛を信じている自分には本当に肯定してくれる本作が非常に嬉しかった。
成美のくますけにあたる存在が、わたしにとっての夜船くんや、それこそくまちなのだ。特にくまちは、あの晴れた日に嘘をついて家を出たわたしが東京駅へ向かう途中、情けない事に泣いていたのを膝の上で見ていた。あの日を共にしてから、余計にくまちの事が大事になった。くまちは、くまちだけはあの日のわたしを知っている。
また、わたしの創作……日々の一部、人生の一部のため、創作と言うには少し違うような気がしてしまうけれど、とにかくその創作はわたしの逃げ場であり支えでもあった。今でも変わらない。日々在って当たり前の存在。
そういった在るけれど無いものに縋って生きている身としては、この作品は非常に身近に感じられた。そういう「ぬいぐるみはぬいぐるみ」と言うように分かっていてもそれでも、無責任に意思を押し付けて己を肯定してくれる存在を人生だと呼んでいるから、成美とくますけ、裕子となんなんが他人に思えなかった。
日々を生きるには、無責任に意思や思考を押し付けて勝手に動いて生きてくれる、わたしを信じて肯定してくれる存在がわたしには無くてはならないのだ。
いつかは離れないとならないかもしれないと考えたことも無くはない。けれど、この作品はそれすらもしなくていいと肯定してくれた。心から出会えてよかったと思う。
終わる前に最後に。
やはり小説の帯は年々チープになっている気がする。既にわたしは「くますけと一緒に」の厄介オタクと化してしまったのでこんな文言で読者を誘うな、と轟洋介の目になってしまう。